中1松江塾ママブロガーmomoの基数

娘の成長が、早すぎて見えなくて。言語化することで、なんとか掴まえようと、デジタル母子手帳始めました。

神記事宣言 東大院、芸大院出身の40代6人に、勉強について聞いてみた シリーズ4

勝手に神記事宣言 シリーズ4

 

東京大学大学院 出身4人

東京藝術大学大学院 出身2人

 

と「勉強」について

 

Messengerで話しているところ。

 

前回まではこちら。 

 

 

前回は「受験」について紹介した。

 

大学受験について、追記しておくと、

このメンバーの半分以上が浪人組だ。

 

彼らは、高校生活を謳歌し、

1年必死で勉強して

大学合格を果たしている。

 

ランクを下げず、高校受験に挑戦し、

大学受験で浪人するのも悪くないそうだ。

環境が許せばの話だが。

 

その高校でしか学べないこと、

得られない環境に魅力があるようだ。

 

 

では、本題。

 

今回は、「勉強する意味」について。

ここでいう勉強は、

「受験勉強」を指します。

 

 

「勉強しておいた方が、選択肢も広がるし、自分のやりたいことを見つけたときに、進める可能性が高いから、とりあえずがんばれ」

 

これに似た発言、していませんか?

まあ、とりあえずやって損はないよ、

みたいな。

 

私もそんなふわっとした感じでした。

 

今回、このメンバーと話して、

それは違う!と気づくことができました。

 

では、なぜ、勉強するのか。

 

結論から言うと、

核となる理由は2つ。

 

1つ目は

「努力することが、このくらい上手にできるようになりました」

という証明書をもらい、

公平な評価を受けるため。

 

2つ目は

人生の宝となる面白人間や教授、

環境に出会うため。

 

 

まず、1つ目から。

東大院卒のママからこんな発言があった。

 

「勉強できる人の行く学校を、

 

『偏差値で勝ち上がってきた人

のいくところ』

 

と思うんじゃなくて、

 

『努力することが上手にできるようになった人たちの行くところ』

 

と思うと、

 

ちょっと柔らかい気持ちになるね」

 

これを聞いて、私は目の前がパーッと

明るくなった。

 

「私はこれだけ上手に努力ができる人間です。

 

それはここに証明されています」

 

その証明書をもらうために、

大学合格のチケットをゲットするのか。

 

東大に合格するために、

50から始めなければならない人と、

60から始める人とでは、

10の差がある。

そういう意味では、

70に達するまでの努力に差があり、

20努力できる人と10努力でいい人と、

不公平かもしれない。

でも、スタートの数値を

証明することはできない。

 

だから、

「70まで努力することができました」

という点においては、

間違いなく平等なのだ。

 

「私はこれだけ上手に努力できます」

と、大学名が証明してくれる。

 

なるほどである。

 

sin.cos.tanが

「解けること、そのもの」

に意味があるのではなくて、

 

「解けるようになるまで努力したこと」

に意味があるのだ。

 

難しくて、すぐに解けなくても、

努力して解けるようになる。

その努力を評価してもらえるなんて、

なんて素晴らしいことなんだろう。

娘をこの土俵に上げたいと思った。

 

大人になるとそうはいかないものだ。

 

不条理なことが多く、

正当な評価を受けられないことは

珍しくもなんともない。

 

しかし、学生時代は、

「努力したこと」

が正当に評価されるのだ。

 

もちろん、大学に入学してからは、

そこで何を学び、

どんな経験をしたか、

が重要になり、

就職試験へとつながっていくのだと思う。

それは、入学後の話。

受験勉強のゴールは、大学入学だ。

 

 

偏差値を求めて、

いい大学に入り、

いい会社に入るために、

受験勉強をするのではない。

 

「自分はここまで努力できる人間だ」

と証明するために、

限界ギリギリの大学にチャレンジするのだ。

 

この2つには大きな違いがある。

 

「とりあえず、やりたいことが見つかった時に困らないように、勉強はしておいた方がいい」

 

なんていってる場合じゃない。

 

限界ギリギリの大学に入って、

自分が得られる最高値の環境で、

自分のやりたいことを見つける。

 

やりたいことが高校生のうちに見つからず、

とりあえず勉強しておく

くらいの覚悟では、

大学に入って本当に自分のやりたいこと

を見つけたいと思った時、

環境は最高値ではないのだ。

 

 

スポーツや芸事で

将来の目標が決まっている人は、

その道を進むのみだが、

 

「勉強」で勝負する(or しかない)

人は、

 

自分の最高値の環境を目指し、

 

努力の証明書をもらう道を歩む。

 

そのために、

 

中学生のうちにできることは何か。

 

 

それは、

 

目の前の受験勉強に真っ向勝負し、

 

努力すること

 

しかない。

 

 

もちろん、勉強以外も大切だ。

 

仲間との部活や、生徒会活動、恋愛、

留学など、

充実した生活には必要だと思う。

 

けれど、核となるのは、

「勉強において努力できる自分」だ。

 

高校受験の推薦入試には、  

スポーツや文化の分野で

優秀な成績を修めた人の推薦枠もある。

しかし、入学後にそれを継続する義務が

ない場合がある。

それは、その成績を取るまでの

「努力」を評価しているのである。

 

ここに勉強することの意味がひとつ、

明確なカタチになって

私の頭に刻まれた。

 

2つ目の理由に行く前に、

ちょっと寄り道。

 

東大院卒の中には、こんな人もいた。

 

「勉強って、何をするんでしょうね。

生きる力をつけるため。

ただ、衣食住足りて生かされるのではなくて、

自分の意思で自由に生きるため。

でしょうか。

勉強しないと、

国や大企業に都合の良い大人になって、

よく働いて、

よく税金納めて、

よく消費する、

だけの人生を歩まされてしまいそうで

心配です。」

 

そういう視点もありだ。

 

国のコマになるんじゃなく、 

 

自由を得るために勉強する。

 

ちょっと長くなってきたので、

 

2つ目の理由は、

 

次回への宿題にしますね。

 

松江塾の真島先生の紹介文です。

(過去のものがうまく探せなくなるので、ここに貼り付けさせてもらいます)